小沢一郎へのエール

 小沢一郎はやっと戦いはじめた。菅井はそう感じている。


 菅井は、小沢一郎という政治家について、体制内の政治家であるという印象を持っていた。
民主党よりも、古巣自民党の政治家たちと精神的にはつながっているのだと思ってきた。長いこと、自民党で政治してきたのだから。大連立の試みも、彼のそういう感性からすれば自然だと思った。いつまでも、民主党にとけこまないように見えるのは、前からの民主党の連中が、小沢の能力に嫉妬したり警戒したりするからだけではなく、小沢一郎の側も壁をつくっているから、彼が体制内政治家だから、ということがあると感じてきた。
 政治手法も、戦いによるよりは、取引、駆け引き、に依存している。というよりは、いつも表には出ず、自分が先頭に立つことはなく、裏で交渉して勢力を増やしていく、そういう政治家と感じてきた。現に、小沢一郎に対する、バッシング裁判に抗議して市民が立ち上がっても、一緒に行動することはなかった。脱原発にしても、菅から新内閣になって逆転しても、口をとざして動かない。


 もちろん、民主党を勝利に導いた、選挙におけるリアリズムはすごかった。彼には、実際に実現させる力がある。口だけの政治家ではない。
 彼が民主党勝利にあたってかかげた政治理念、諸民の生活を第一にする、も信頼するに値すると思った。民主党がその方針を投げ捨てている状況で、小沢が孤立させられていることの意味も、彼がその理念を維持しているからに違いない。


 だが、この政治理念は、諸民のために政治をするというものであっても、諸民とともに戦うというものではない。そして、この理念や、諸民の命を守るために脱原発するということは、諸民と一丸となって戦うことなしには、獲得することは決してできないものなのだ。体制内の連中と駆け引き、取引をしているだけでは決して獲得できない。向こうは、妥協することはないのだから、とりこまれるか、排除されるか、いずれかになるに、はなから決まっている。


 反戦な家つくり、明月さんがかつて言ったように、ずっとつづいてきた支配権力、利害と人間関係でつながった官僚、大企業、政治家たち、裁判官たち、アメリカの連合勢力の政治と、諸民のための政治との対立の最前線にいて、諸民側に立って、圧力を全面に受けているのが小沢一郎なのだ。だから、我々は彼のきびしい状況を理解して、支えなければならない。
 だが、そのための最低の条件は、小沢一郎が、今までの支配体制と手を切って、断固として戦うことだ、そのためには、永田町の兄弟たちとの心理的つながりを絶ち切って、諸民とつながらなければならない。
 小沢一郎にそれはできるのだろうか、大変なことだ。自分の立っている地盤を全とっかえするようなものだ。菅井は、人間の物理というものからして、懐疑的だった。いや、まだ懐疑的である。

 
 
 だが、昨日の、裁判における司法批判、夜の記者会見におけるその再確認を聞いて、小沢一郎はようやく戦いはじめた、と感じる。


 もちろん、これは正論にすぎない。「三権分立」も「議会制民主主義」も、菅井のような唯物論社会主義者にすれば、ブルジョワ社会の建前にすぎない。実際には、官僚機構と司法は一体となって、政治の転換、旧来の権力の瓦解を防ぐために、諸民にたいして必死の権力闘争をしかけているのだ。小沢裁判もその一環である。
 正論に立つことは、権力に対する批判としては、充分ではない。それは、権力の正統性に対する矛盾をつくことではあっても。
 夕刊フジが、小沢の自滅と評したように、これは旧来の政治に全面対決をしたことになる。たしかに小沢派の議員は逃げ出すかもしれない。なんとかという、入閣している小沢派の実力者は裏切るかもしれない。裁判官は、司法の威信を傷つけられて、何がなんでも小沢有罪にしようとするに違いない。


 小沢氏は、この裁判での主張によって、退路を絶たれてしまった。彼は、彼を支えようとする「市民」、ニコニコニュースで対話を続けている人々とか、支えるために後援会に入った明月さんのような人々、小沢の政策には同意しないが、こんな弾圧を許したら本当に民主主義の危機だと思う人々と積極的につながって、裏取引ではなく、堂々とした戦いの前面に立ってやっていく以外に生き残る道はないと思う。地盤を永田町でもなく、地元の利害政治でもなく、真の民主を求める諸民とのつながりに、取り替えること、これはアクロバットのようなものだ。だが、このアクロバットをやることなしには、政治家小沢は生き残ることは多分できないだろう。

 とりあえず、今は、戦いはじめた小沢一郎にエールを送りたいと思う。