年頭にあたって

 きょうは旧暦の元旦である。春のおとずれの始まりが正月であるのだが、事実、肌寒い中にあたたかい陽射しがさしていた。もとから正しさえすれば、正月も本来の姿におのずと戻るものなのだ。大寒もすぎていないのに、未曾有の寒さの中で、正月などといっていて、何か、あたたかい心持ちになるものだろうか。形にとらわれるばかりのムリの中ではそういうものは決して生じない。正月をいつにするのかなどというのは、人間間の約束で決まっているだけで、多数決できめればいい、などと思っている人が多い限り、物事の誤りは正されない。
 人為の約束には菅井もしばられているので、残念ながら、仕事の合間をぬっての、おかたずけ、正月料理の材料そろえ、となっているが、最低限の正月は迎える。共同体のつながりにこもっての、祖霊ないしは山の神からの活力をもらう、ていねいに準備した正月料理は、その神さまからのおすそわけである。(御馳走)家長なら、それを自分たちの共同体のメンバーにさらに分かちあたえ、皆で、ふゆのおわり、新しい、はるのはじまりを感じとり、祝うのである。人間もまた、自然の一部である。自然の更新あるところ、人のいのちの再生もまた、あるのである。
 氏神さまの社での共食(強飯式なども本来、正月の行事であった)も、同一の構造である。念のために言えば、初もうではそうしたものとはまったく反するものである。共同性や、準備等の共同活動はそこにはなく、ただ、大神社にでかけて、幾たりかのさい銭で安心を買う。本来の正月行事が、じぶんたちの共同性の地からを信じ、いのちをとりもどしていくものであるのに対して、明治以降の産物である初もうでは、自分たちの生存の不安を、自分たちとは無縁だが、強大な血からをもつという、大神社、大寺院の血からにすがって、とりのぞいてもらおうという姿勢から生じている。そして、なによりもマスコミあげての大宣伝がそれをさせている。事実、空前の初もうで客の数となった、今年の「新正月」は、信仰の深まりを証明するものではなんらなく、人々の生活と未来への不安の増大を示しているだけなのである。
 先祖伝来の浄土門である菅井は、自力の方が他力より優れているなどということをいっているのではない。正月の行事のいのち、秋夏の祭りの賦活の地から、はすべて他力こそが実相であることを示している。最近聞かない言葉を使うなら、疎外だといっているのだ。
 一年2度の祝いは、農作業にいそがしく、この二つの時期にしか、ゆとりをもって祝いごとをすることのできなかった、諸民にとって、貴重ないのちの取り戻しなのである。
 現在の諸民、賃労働者たちも、その根本的な事情が変っているわけではない。



 謹賀新年

 慎んで、新春の到来をお祝い申し上げます。
 これといったもの、何もさしあげられず、申し訳ありませんが、今年もどうか、よろしくお願いいたします。

 ともに助け合い、ささえあって進んで参りましょう。

 六十年間、懸命に守り育ててきたクニの平和が、さらに百年、二百年、三百年とつづきますように。
憲法の平和主義の精神を誇りとし、

 平和を守り、専制と搾取、侵略戦争と特権を地上から除去しようと務めている国際社会のもとで、
日本人としてのささやかだが、確かな手ごたえをもった部分的役割を果たしていけますように
共に励みましょう。
  
                  2006年 元旦     菅井 良

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おことわり
     今日から、月日の表示を陰陽暦とし、年のみ西暦のまま表示することにします。