村上春樹 どこであれそれが見つかりそうな場所で

 雑誌「新潮」に連載中の東京奇譚集の第三回「どこであれそれが見つかりそうな場所で」を読んで、なんだか、村上春樹先生から、以下の文章を読んで次の問いに答えなさいという試験を受けているような気持ちになりました。主人公が奥さんから、失踪した夫をさがすように頼まれる話なんですが。

「問い1 主人公がもとめているものとはどのようなものか? 」
「問い2 主人公は、調査の費用を依頼者から受け取らないのだが、それはなぜだと思うか。」
「問い3 主人公の求めるものは、どの程度までみつかったのか。」

以下は、それに対する私の答案です。


 確かに、主人公は なにかを求めていて、それはドアのようなものだと書かれている。だが、ドアは主人公が捜してのぼりおりする階段にはない。あるのは鏡とソファなのだ。
 主人公が、あるしかたで失踪する人ばかりをさがしているということも言われている。
 ある日突然、何の前触れもなく、失踪する人がおそらくは問題である。愛人がいて駆け落ちとか、借金があって首がまわらなくなってとか、うなずける理由のある人は、主人公の問題としているケースではないのだ。
 村上さんの言い方をとれば、「海辺のカフカ」の主人公の少年のような、社会の中に居場所をもっていない人の、ひそかに解放される空間。その空間の中である実践を繰返すことによって、ある日突然、考え方、つまり言葉までがんじがらめにしばられていて、どこへも脱出などできないはずだった人が、消えてしまう。それは、そのオアシスのような、何のためのでもない空間での積み重ねられた実践が、無意識の思考=言葉・記号となってある日突然組み上がり、人を支配していた言語の力を振り切ってしまうのだ。そんなひそかな空間が日本中、いたるところに実は存在している、と想像してみることもできる。そんな空間がつながり、ひろがり、やがてどこでもドアのようなものにならないとは限らない。
 階段がつくりだした解放された空間には、ドアではないが、鏡はあった。その鏡の前のソファにすわってぼんやりしていると、鏡の中には、地位、職業、家族との関係などから解放された、もう一人の自分がうつっている。同様に、学校や家族にしばられている小学生の少女が、ここの鏡は家にある鏡とはちがうものが映るといっているのは、彼女もまた、その空間で解放されたもう一人の自分をつくる実践をしているからなのだ。
 村上さんは「レーダーホーゼン」という短編の中で、いつも夫と一緒だった女性が、ひとりで外国に行き、夫のためにズボンをつくってもらうために一生懸命やっているうちに、夫が嫌いであることを発見し、失踪してしまう話を書いている。
 たまたま、偶然、そういうことになったみたいなその女性と比べると、妻がエレベータにのっても、自分は断乎階段をつかう奇譚集の失踪した夫はやや能動的、自分でえらんでいるといえるかもしれない。
 それに、毎日変らない実践を繰返しているうちに10キロも体重のふえてしまった夫がこのままで老い、あと何年、高層マンションの26階からの階段の上り下りをつづけられるか、こうした実践をつづけられるのか。この男性はぎりぎりのところに来ていたのかもしれない。
 夫は失踪していた期間の記憶を失って、あるいは失ったという説明をすることによって、現世にまいもどってきた。体重をきっかり10キロ落として。
 階段をのぼりおりし、鏡の前ですわってぼんやりする実践をくりかえすことで、彼は、新しい自分に生まれ変わったのだろうか、それとも、20日間だけ、とびつづけて失速してしまうだけの力を与えることしかできない、まだ不完全な空間だったというべきだろうか。だが、10キロ減量した夫は、階段ののぼりおりをまだしばらく続けることはできる。それに、村上さんの世界では行きっぱなしで戻ってこないというのはよろしくないことだった。
 主人公のしろうと探偵は、どうやら、この調査を感情移入のような手法で行っているようだ。夫が失踪したことと、彼がエレベータをつかわず階段をのぼりおりしていたこととに関係があるらしいとみると、毎日毎日、せっせと自分も失踪した夫と同じようにその階段を上り下りする。そこで出会った人とたまたま話したり、管理人と知り合いになったり、小学生にちょっとだけ教えたり。それはいきあたりばったりのようである。主人公にとっても、この探索は、なかば自身のしがらみ仕事からの解放空間みたいだ。
 そして、ある日、主人公はソファでぼけっとしていて、何十分かの時間を失うのだが、それとひきかえに鏡の中にいつもと違う自分を発見する。夫がそのソファにすわって休息するたびに見ていたもの、見ることを通じて、脳のどこかと体に蓄積していった何者かを。
 主人公の発見はここにある。さがしていたものは、鏡だった、ということもできる。だが、それは、特定の人にさし出されたモノなんだし、20日をすぎても効力があるのか、まだわからない。
 主人公の特殊なその共感能力は、多分、お金をもらって約束としてやらなければならないということになったら、かなり損なわれるような気がする。そして、主人公のこの発見と、失踪した夫の帰還との間に事実的な因果関係があるというのは、ちょっと考えられない。主人公は、妻の依頼のおかげでこの探索ができることになったのだけれど、妻のさがしてほしかった実際の夫はもどってこないということだってあり得る話だ。だから、お金はもらうわけにはいかなかったろう。
 もっとも、同じ閉塞した日本で成長した二つの脳システムが、同じようなリズムで、物事を紡ぎ、次のステップに進むというような社会意識の時の流れのようなプロセスがあるなら、主人公の発見と夫の帰還の間には関係があるかもしれない。あるいは、もっとこの探索をつづけていたなら、ある日ふいに、夫がどこにいったはずであるか、思い至るということもあるのだろうか。
村上さんの世界の中ではむしろそういう因果が当たり前の世界だったりするものな。
 以上です。