むらかみはるき

村上春樹の新刊書が百万部を越えたと新聞でみた。
書店では、発売当日に第二巻しか置いていなくて、一巻は売り切れていたのを観て、けっこう売れているのだろうと思った程度だ。二巻もかなり売れたからなのか、それほど取り寄せていなかったからか、山積みというのにはほど遠かった。
だから、そのじったいけんと、ひゃくまんぶというすうじのあいだには、いわかんがある。
菅井は、村上春樹の新刊書は、まずある日、本屋によるとそこにあったのを発見して買うというのを常としていた。
あったら、買って、翌朝まで読み続けて読了する、それがスタイルだった。
ノルウェーの森だってそうだった。おびのいろがちがっているのはそのためだ。

だが、最近は変わって来た。前もって、村上春樹の新刊の宣伝というか、予告をあちこちで見るようになった。
なんだか、彼の本とのかかわりがかわってしまいそうなきがする。
それでも、ふらっとたちよったしょてんで、みつければ、そくざにかうというのはかわらなかった。

だから、こんかい、にかんしかなかったのは、こまった。いっかんもあれば、たぶんもちがねをなんとかしても
かったとおもうが、にかんだけではかうきがしなかった。べつのほんやへ、
むらかみはるきのなんとかというほんはありますか、という
すがいにとっては、あたらしいかいかたをするきにもなれなかった。

というわけで、すがいはまだ、そのほんをてにしていない。

あれ、むらかみはるきの ねっしんな どくしゃを やめちゃいそうだぞ、やばい。


すがいは、しゃかいしゅぎのたちばだが、すがいにとって、しゃかいしゅぎのてんけいは、にほんきょうさんとうではない。
しゃかいひょうろん という ねんよんかいはっこうの そうごうひひょうしである。そこに かかれていることは、もちろん、いけんのことなることもあるが、 すがいの かんがえと かなりよくいっちしている。

そのなかで、いけんの ちがうことの ひとつが、むらかみはるきの エルサレムしょうじゅしょうにたいするけんかいだ。むらかみはるきは、けっきょく、たいせいのきょようするようなことしかいっていない。そこにはかべのざんぎゃくこういへのいかりがかんじられない。そのざっしにのったあるぶんしょうはそういっていた。

もちろん、あるいみでは、そのふたつのことはじじつである。
そのろんじゃもいうように、たいせいのきょようしないひはんをすれば、かれはイスラエルにいくことは できなかっただろう。イスラエルではなく、バレスチナにいかなければならない、ということもいえるだろう。じっさいにそうしたひとびとはいるのだ。だから、にほんはバレスチナとつながっている。そして、かれらはかれらのなしうるえいきょうりょくとせっとくりょくをもっている。

むらかみはるきは イスラエルにいった。だから、イスラエルのひとびとと にほんはつながるだろう。そして、むらかみはるきは、にほんで、またべつの、かれのなしうるえいきょうりょくと、せっとくりょくをもつだろう。
すくなくとも、すでに、かべからでて、たまごのがわでかたるひとびとがあらわれはじめている。むらかみはるきがしたことのいぎは、それがなにであるかではなく、なにをうみだすかということだとおもう。

また、いかりのことも、だいじなことだ。だが、しょみんにいかり、そうじてにんげんてきなかんじょうがどうあふれでてくるようになるのかについては、だれもまだ かいめいしていない。ひはんするろんじゃは、じぶんにはそのいかりがあり、なかまたちにもあることはしっているだろうが、にほんのしょみんにそれがどのようにしてしょうじるか、については、むらかみはるきより わかっているとは いえないようにおもう。

そんなことを
CloseToTheWall 問われることの重圧
http://d.hatena.ne.jp/CloseToTheWall/20090609

というエントリーにはてなブックマークをつけつつ、おもっていた。