自主独立の意義と、論理自立の意義

村上春樹は、1Q84のBook3を書いているそうだ。先があるというのは、よいことだ。


自主独立という言葉は、第二次大戦後にはやった言葉だと思う。大国主義に対することばだが、それまでは、小国がやっていくにおいては、いずれかの大国の傘にはいって生きて行くしかない、どっちの大国がよい国かという「自主的」判断はあっても、畢竟いずれかの国につく以外にはないと思われていた。だが、そうではない行き方が模索されて、それが「自主独立」だった。

国家間では、それは、国の外交方針として、探求されたが、国際的な組織としての、共産党間でも、追求された。日本共産党が、ソ連と中国の共産党間の対立から、距離をおくために、民族主義を強調してそれをやったのはその一例だ。その結果、生き残った。朝鮮労働党をおかしくした主体思想だって、彼らなりの自主独立への試みだったといえる。

自主独立を、どちらにつくかの判断だけにとどまるならともかく、実際に実効に移すのはむずかしい。だからいろいろな試みがされている。

日本についても、アメリカの属国だという実情がわからないうちは、まだいろいろ試みがあったが、今や、そんなことは考えても無駄だとばかりに、自主独立の真の意味は忘れられてしまった。外交上の目標にもあがらない。

ネット上の議論を読む限り、自主独立の意義は、ネットウヨクの諸君にもさっぱりわかってはいないようである。

同様なことは、論理についてもいえる。論理は、なにかのために利用される道具ではない。客観的な実在についての法則の一つだ。一部だけつかえば、揚げ足取りに使え、相手が論理にくわしくなければ、それで押し通してしまえる。だが、それでは論理の真の意義がわかっているとはいえない。わかっているかわかっていないかの、目印は、自分の考えがまちがっている場合、論理によってそれがわかることだ。わかっていない人は、いつものまにか、自分の意見を変えてしまっていても、そのおかしさにきがつけない。変わることはあっても、直すことはできない。

ネット上には、論理ということがまだわかっていない人が沢山いることに、最近になってやっと気がついた。きくにたえないバカよばわりの中には、そういう真実も含まれてはいたのだな。どうしたらいいものか。