代替思想への幻想

菅井には、ながらく代替思想への幻想があった。

それは、本質的には、マルクス主義の代わりにニューエイジ思想がなるかもしれないというものだった。

当時、マルクス主義にはいくつもの問題があった。唯物論を基礎にするとしながら、唯物論的、理性的な検討の作風のないことが、菅井には特に具体的に問題だった。

だから、マルクス主義に対する信頼がくずれていく中で、それともつながって発生したニューエイジの運動には興味をひかれた。とりわけ、マルクス主義に欠けていた主体の唯物論的分析に相当するような、個人や、身体にたいする体験やテーゼのようなものには、ニューエイジは事欠かなかった。宗教、やや神秘主義的な、にもつながっていることは知っていたが、なお、自然尊重のような要素(だから、ニューエイジエコロジー主義、自然を肯定前提する、とも見ていた)は、唯物論に通底するものと感じていた。
ムーブメントとしては、ニューエイジは、いくつかのスキャンダルもあるが、オウムの事件で命脈を絶たれた。

あれから長い年月を経て、ついに、マルクス主義の代替理論は現れなかった。名前を変えて、あり方も変えて、そこにあった本質的な批判内容を受け継いだ、もっと別のものが出てくるのでは。それなら、それでよい。そういう感じが菅井にはずっとあった。

だが、ニューエイジは、たかだかマルクス主義の平板化されたコピーのようなものに過ぎなかったと、今となってはいうしかない。

そして、今存在している資本主義を根本的に乗り越えようとする思想も実践も、マルクスの発見と思想に依拠している。

事実としては、マルクスの発見と理論には、代替物は存在していない。

自分の中には、全く新しい代替物、という幻想があったのだと、気がつかされた。


ヘーゲル哲学についても、同じであるように思われる。
ヘーゲル以後、とてもたくさんの哲学があるが、有機生命体の運動展開それ自体を取り扱う哲学は、ヘーゲルしかない。フォイエルバッハマルクス自身のヘーゲル批判には意義がある。だが、彼らも、その他の誰かも、ヘーゲルの代替理論を提出することは、事実としてできていない。

オンリーワンという言葉があるが、それはこういうもののために使った方がいいのではないか。