明治維新 1

明治になったとき、なぜ、江戸はすぐに東京と改称され、始め西でつくられた政府機関は次々と江戸に移されたのか?
また、明治維新によって、江戸の人口はなぜ激減したのか?住んでいた人々はどこへ行ってしまったのか。

まず、第一の点については、すでに、江戸を東京にし、都を移転すべしという具申が述べられていた。
大政奉還によって、将軍職を辞した慶喜は、静岡以外の領地をすべて没収された。江戸にいた大量の旗本・御家人は収入を絶たれたのである。江戸にお金が落ちなくなった。徳川の直参たちはどうしたのか。慶喜について、江戸を離れたのであるか。
また、これに加えて、強引に戦争を引き起こした薩長は、江戸城にかくされた金を軍費その他のためにあてにしていた。が、これはすでに使い果たされていたらしい。末期には、幕府の財政は赤字であった。戦争にかかったお金は膨大なものとなる。戦費は結局大商人からの借金によってまかなわれることとなる。薩長政府が財政において、なんらかのめどをつけるのは、いったいいつのことであるか。
江戸への遷都は、政治都市江戸を生き延びさせるための唯一の手段だったと思われる。また、もし江戸が急激な崩壊をするままに放置したならば、民生は安定せず、薩長明治維新政府はもったかとどうか怪しい。長州征伐でも、戊申戦争でも、幕府、反幕府の戦争があった年には、農民の一揆もまた、多かった。薩長軍は、幕府の統治機構がなくなった地域で、直接、農民たちと話し合い、説得をしたりしている。ここで注意すぺきは、薩長軍は、農民層の代弁者としてたたかったのではなく、幕府の代りの権力として、農民の抵抗ある中、受け入れられるように試みたといえることである。諸民の一揆は、独自の動きとして(複数)存在したのである。
薩長軍もこうした諸民の抵抗がある中、いつまでも、内戦をしていることを恐れただろう。また、薩長軍の西郷と勝の話し合いの中で、江戸をどうするかが直接話し合われ、それが具体化をみていることに注目したい。
明治維新政府の国家、つまり意志決定のプロセスは、勝ー西郷のようなつながりを含んでいたのである。このような、個人的、流動的な政治決定のプロセスは、維新直後の特徴である。のちの、大日本帝国の国体が完成してからの目で、この初期を見ようとすると、政治的成果(結果)だけを箇条書きにする今の教科書のような記述が生じる以外にあるまい。

付記、強引に戦争を起こした薩長ということでいえば、ネットに南部藩の歴史ということで、
徳川慶喜将軍は前年10月既に征夷大将軍を辞し大政を奉還し謹慎していたが、恭順の意を無視するかのように薩長軍は勝ち誇りいたずらに進軍を続けました。
南部藩は当初奥羽鎮撫総督九条道孝に軍資金1万両を献上、朝廷に逆心無きことを明らかにして「錦旗」を貸与され、この段階では後に賊軍の汚名を着るべきも有りませんでしたが、薩長の理不尽な要求と長州の世良修造をはじめとする薩長の下級武士たちの略奪暴行等粗暴な振る舞いを目の当たりに見た家老楢山佐渡は、これからの日本を彼らに任せて良いのかという疑問を感じて居た矢先に世良修造が薩摩の大山に宛てた「奥羽武力鎮圧・・・・何が何でも武力で潰せ・・・」 (イラク攻撃に似ている)の密書を入手した仙台藩士8名が福島の宿舎で世良を切ってしまい戦乱の火ぶたが切って落とされたのでした。」
と書かれていました。