いじめの連鎖

 いじめの問題を訴えると、さらにいじめられる。これが今までの日本の状況である。いじめを原因とする自殺予告の手紙を文部科学省が公表して以来、その状況は、この手紙がいたずらであることをにおわせる発言の形をとってネットにあふれはじめている。いろいろ言ったあとで、いたずらかもと一言書くだけでも、それにつくいじめコメントを見れば、その役割は明らかである。
 いじめは実在しているのであり、それを何か、気の持ち様のようにしようとするものは、自分は観客であるふりをしていじめがあることををあいまいにしようとしているのだ。そういうのを「いじめに加担している」、という。


 法政大学に管理強化が行われようとしている。東京教育大学が廃止させられた時のことを思い出す。法政は東京の私学でもっとも民主主義的な大学の一つだからだ。攻撃は、戦後民主主義の獲得物一切に及んでいる。戦わないで、残してもらえるものなど、何一つないと考えなければならないようだ。


 部落解放運動の獲得物であった同和行政も廃止されようとしている。一部に同和利権の問題と解放同盟の糾弾のあり方など、問題も含んだことは事実だが、いじめの連鎖の体質を真に突破したと言える諸民の運動は、部落解放運動以外には我が国には存在しなかったことはまぎれもない事実である。自民党の諸民見放し政治の中で、地方行政も危機に陥っていることが背景にあるが、雑誌などには、それをきっかけにその運動意義を根こそぎ否定しようとしている仕掛けが感じられる。