諸民の文化と前衛の文化

諸民の文化と前衛の文化の区別の不可欠

近代の社会契約論の思想が述べているとおり、社会は人間によって作り出されるものである。
それは、自然物のようにあらかじめあるものではない。

だが、今の社会、階級社会、そして資本制社会においては、ほとんどの人々は実質的に
社会を作り出すプロセスから排除されている。
政治が彼らにとって遠いのは、実質的にわれわれが、そのプロセスから
排除されているからである。社会に対する無力感、それはまずもって、
資本制社会における賃労働生活者の大前提である。

さらに、それに、日本の特殊性が重なる。
平和社会の実現など、西欧に先がけていることはあるが、
日本の明治維新も、戦後民主主義も、いずれも、革命ではなかった。
世の中は変わったが、それは諸民の力によって変わったのではなかった。

西欧には市民革命がある。その主体は、まだ社会の支配者になるまえの、
資本家たちだったとしても、歴史の中に、人々が社会をつくるのだという集合的自覚、記憶を
彼らは持ったのである。

だが、日本においてはそうではない。


そして、さらに、日本は、帝国主義という誤った道をとって、破滅し、アメリカに支配される國になってしまった。
戦後民主主義の時代は革命の可能性の時期でもあったが、幾重ものまちがいや行き違いがあり、諸民の
力を育てることが遅れ、60年安保闘争の敗北をもって、諸民が自ら社会をつくっていく機会は失われた。
その後、米日二重の独占資本権力の下、諸民はばらばらに分解され、連帯(友愛とはこれの同義語である)を失い、
今日を迎えている。

諸民はまずもって、支配者たちから分離しなければならない。言葉においても、文化においてもそうである。
諸民の文化とは、諸民みずからが作り出す文化であって、資本によって与えられるものであってはならない。


そして、諸民の文化と連関するものとして、前衛の文化がある。前衛の文化もまた、資本の文化から自立したものだが、
それは、革命と危機の時期においては、その危機のもたらすものを分析洞察し、あらかじめ、その結果として生ずる
革命実現の 観点から、諸民に進むべき道を提示する文化である。それは、狭義の政治ばかりではなく、行き方、文化の
あり方にも関わるものである。

前衛の文化は、諸民の文化と関わるが、諸民の文化とはちがう。諸民は、革命がはっきりと目の前に現れるまでは、
前衛の文化をその本質において理解することはできないだろう。この分裂は、階級社会のもとでは、避けることは
できない。

前衛の文化は、諸民の文化のありようを理解して自らの立場を貫徹しなければならない。
諸民の文化は、前衛の文化を孤立させ、自爆死させてはならない。


政権交代があって、民主党はひとつまたひとつ、自民党政権下ではなかったことを実行しつつある。それは、人々に今までにない可能性があることを教育しつつある。これが、さらなる危機と変革へのきっかけとなるのなら、
前衛の文化と、諸民の文化を我が国にはぐくむことの意義は絶対である。各自は、自分の立場において、なすべきこと、欲することを実現する。それに尽きる。