経済制裁風潮を慟(なげ)く

むかし、僕が小さいころ、父親は、中国人のことをちゃんころ、朝鮮人のことをちょうせん、といって、ひどいことをよく言ったものだ。中国人は何とかだ、とかいう決めつけだ。僕が幼いながらも感じたことを抗議すると、ヤミ市でどうたらこうたらとか、いいわけをするのが常だった。そのくせ、父にはただのひとりの具体的な中国人や朝鮮人の顔見知りがいるわけではないのだ。
その後、時代が変ったのか、父親もおおっぴらに、差別やいじめ発言をすることはなくなった。
ところが、最近、朝鮮人や中国人について、その昔の父親の発言以上に聞くに堪えない侮蔑発言、差別発言、集団を頼んでのいじめ発言が世間で目につくようになった。拉致事件だの、大東亜戦争の謝罪だのの文脈を聞き流してみれば、なんのことはない、みんな昔ありふれていた大国主義むき出しの差別とイジメに他ならない。日本人はここまで品性を下げてしまったのかと情けなく思う。
戦争目当てで、憲法改定をねらっている連中だって、人間の尊厳だの、国際社会の融和だの人間の平等だのまで、すっかりひっくりかえしてしまうことはできまい。なのに、北鮮攻撃のかたちを借りた朝鮮人差別のひどさは驚くばかりである。拉致被害者という錦の美旗まであるからなのだろう。
その、雰囲気が日本国家を支配している中での、経済制裁、経済封鎖発言である。経済封鎖などは、戦争の第一歩であっても、2国での交渉の手段にはなりえない。制裁は、国連など、国家より上の、国際的司法機能を持つ機関にしか許されるものではない。1国が他国に制裁など、宣戦しているようなものだ。わかっているのか。
日本だって、「大東亜戦争」の直前にはアメリカの経済制裁に苦しめられたものだった。その結果の真珠湾ではないのか。
制裁を言う弱い者イジメたちは、そのこともうすうす感じられるものだから、制裁で朝鮮が言う事を聞くようになるはずはなく、かつてのアメリカに追いつめられた日本のように、戦争をしかけるのではないかと恐れている。そのことを考えるたびに、俺たちはアメリカの安保で護られてるんだから大丈夫と、胸をなでおろすのだ。
なさけないな、制裁でもして、昔の強かった?日本にもどった気分になろうというんだろうけど、結局、アメリカの後ろから、「やーい、やーい」と声をあげているだけなのだ。みっともないなあ。
でもどんなにみっともない制裁でも、朝鮮の人々には困ったことになる。偉い人は蓄えもあるだろうが、貧しい人びとには直接影響するだろう。
これ以上国際的にみっともなさをさらけださないためにも、朝鮮にたいする経済制裁は絶対やらないでほしい。イラクへの自衛隊派遣と、朝鮮に対する経済封鎖は、現日本国家の二大愚策として、歴史に残ること確実である。