「リアルを大事に」という時の「リアル」

「リアルを大事に」と言われたときの「リアル」とは何か(「煩悩是道場」1.11)
というエントリーがあったので、触発されて思ったことを書きます。
このことについて面白いと思ったことがあるのは、解剖学者の養老孟司氏の見解です、だれでも自分の中に、これこそリアルだっていうものを持っているのだが、それは、その人の脳がそう感じているのだ。デカルトが「われ思う、ゆえに我あり」と言ってこれ以上疑う事のできないおおもとのものとして自己意識を発見したといわれるが、彼の脳にとっては「思惟主体としてのわれ」がリアルだったということだ。リアルは人の脳の数だけある。
 概略、そういうことだったと思います。 
 ただの相対主義と違うと思ったのは、脳にはリアルと感じる機能があると主張している点です。脳には、祈りという機能があったり、良心という機能があったり、計算をするという機能があったり・・・というのと同様に。


 菅井は高校の社会科で各自が哲学者を一人とりあげて、自分で調べて発表するという授業を受けたことがあります。その時、菅井が選んだのはアメリカのジェームズという人の「プラグマティズム」という本でした。当時の菅井がそれをちゃんと理解できたわけではもちろんありませんが、おもしろいと思って読んだことは本当です。〈デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」といったそうだが、私には「われ感じる、ゆえにわれあり」が正しいと思われる。〉と、レポートの末尾をしめくくったことを覚えています。後に読んだ養老氏の文章を適用して言うなら、

「実感する主体としてのわれ」が当時、菅井の脳にとってのリアルだった

のです。ものを考えるのは苦手でしたし、そもそもおしゃべりすることとものを考えることの違いも全然わかっていませんでしたので、そうであるしかなかったとも言えるのですが。


 ちなみに発表の評価がどうだったか、クラスの人の反応とかはまったく覚えていないんです。他の人がどんな発表をしたかも。書いた原稿用紙の文面は映像として思い浮かぶんですが・・・。


 良心という脳の働きもつかわなければ錆び付くように、このリアルと感じる機能だって錆び付くことはあります。だから、「リアルを大事に」というのは大事な言葉だと思います。