終戦記念日にしなければならないこと

きょうは終戦記念日である。
菅井は以前にあることに気づいたとき、
敗戦記念日はミズリー号上ノ調印式のあった9月2日であり8月15日ではないと悟った。
今日は、日本が、江戸時代にもっていた平和立国にもどった日、民主国でない国では、
国家意志は君主がもっていたわけだから、君主の宣言、玉音放送としておこなわれたわけだが、まぎれもなく、国内向け、国民(当時は臣民だが)に対して、戦争を止めることを伝えた日に他ならない。
だから、この日を起点として60余年にわたる平和(戦争をしない状態)がはじまったのである。反省すべき点はあるとしても、その画期的な出発点である。それは天皇や当時の支配階級の思惑のあれこれにも関わらず、画期的と言わねばならない。そして、日本の民主国への生れ変わりもこの日がなければ生じなかった。
21世紀になって、国家は相対化されつつあるとはいえ、まだ、われわれの何割かは国家のもとに属している。
この、終戦記念日を自分の何割かは日本国民であるわれわれが迎える場合、何に向合うべきだろうか。人間として、またそれぞれの具体的な生活者としての固有な思いはそれぞれ、あるだろう。
まずもっては、天皇終戦宣言文をまっすぐに読む以外にはない。この宣言を革命日本政府が出していたらどんなものになっていただろうか、などということが頭をかすめることもあるが、歴史の事実はこの文章に結実したのであり、この文章なければ、日本国の本土決戦、戦争継続の意志をくじくことはできなかったであろう。

ある人は東條の遺書を読み、何かを考え、またある人は、他の文書をもってこの日に何かを考える。が、それらは末節である。まず、日本国民は今日という日、「玉音放送」を読み、聞くことで戦争について考えるのでなければならないと考える。

死んで後を私たちに託した多くの将兵に応えるものについて



朕深く世界の大勢と帝國の現状とにかんがみ
非常の措置をもって時局を収拾せむと欲し、
ここに忠良なるなんじ臣民に告ぐ。
朕は帝國政府をして米英支ソ四国に対し其の共同宣言を受諾するむね
通告せしめたり。
そもそも帝國臣民の康ねいをはかり万邦共栄の楽を偕にするは
皇祖皇宗の遺範にして朕のけんけん、おかざる所。
先に、米英二国に宣戦せるゆえんも、また実に帝國の自存と東亞の安定とを庶幾するに出て、他国の主権を排し領土を侵すが如きはもとより朕が志にあらず。
然るに、交戦すでに四歳を閲し朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公、各々最善を尽せるにかかわらず、戦局必ずしも好転せず。
世界の大勢、また我に利あらず。
加之敵は新たに残虐なる爆弾を使用してしきりに無辜を殺傷し、
惨害の及ぶ所、真に測るべからざるに至る。
しかも尚、交戦を継続せむか、ついに我が民族の滅亡を招来するのみならず
延て人類の文明をも破却すべし。
かくの如くは朕何を以てか、億兆の赤子を保し皇祖皇宗の神霊に謝せむや。
これ、朕が帝國政府をして共同宣言に応ぜしむるに至れるゆえんなり。
朕は帝國と共に終始東亞の解放に協力せる諸盟邦に対し遺憾の意を表せざるを得ず。
帝國臣民にして戦陣に死し職域に殉じ非命にたおれたる者およびその遺族に想いを致せば、五内爲に裂く。
且戦傷を負い、災禍をこうむり、家業を失いたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念(しんねん)する所なり。
おもうに今後帝國の受くべき苦難はもとより尋常にあらず。
なんじ臣民の衷情も朕善く之を知る。
然れども、朕は時運のおもむく所、堪え難きを堪え忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を開かむと欲す。
朕は茲に國體を護持し得て忠良なるなんじ臣民の赤誠に信倚し、常になんじ臣民と共に在り。
もしそれ情の激する所、濫に事端をしげくし、或は同胞排擠(はいせい)互いに時局を乱り、爲に大道を誤り信義を世界に失ふが如きは朕最も之を戒む。
よろしく挙国一家子孫相伝え、確く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念(おも)い、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし志操を鞏(かた)くし、誓て國體の精華を発揚し、世界の進運に後れざらむことを期すべし。
なんじ臣民、それよく朕が意を体せよ。