煙を吸うという種別的行為は実在する

煙草を社会から排除しようという禁煙ファシズムは今が絶頂である。だが、国家は煙草からの税収入を支えにしたいというのが本音だ。高額の税を煙草にかけられる根拠もまた、禁煙ファシズムが根拠とするのと同じ煙草有害説である。度を過ぎた煙草排除は、じつは体制にとっても有利とはいえない。煙草自販機にカード使用を義務づける方針はほころんだ。嫌煙原理主義者は顔をしかめるかもしれないが、歴史的な嗜好品としての煙草は、そう簡単に滅ぼさるものではないようだ。白熱電球の廃止や、アナログテレビの有無をいわさぬ停止、消費税の増税など、頭の中だけで考えられた反諸民的な措置が次々考えられているが、それが彼ら支配者のいのち取りにならないとも限らない。
嫌煙原理主義者には言いたいことがある。携帯電話が発する電波は脳のすぐそばでは、つまり当人には有害である。電車の中では分・電波されているほどに周囲への危険も共通理解となっている。それなのに、どうして彼らはそちらについては何も言わないのか。分煙で満足しない彼らが携帯電話の禁止をなぜ主張しないのか。病院の中だけでなく日本国中外では 電波の弱いPHS以外は禁止、となぜ主張しないのだろうか
自動車については、排気ガスの有害は知られている。なのに、彼らはどうして自動車の公道からの追放を主張しないのか。
そういうことどもより、タバコの害のほうがずっと悪いと、本当に信じているんだろうか?

あるいは、戦争は有害だが、人間の欲望あるところ、なくなることはない。だから、戦争の廃止などという絵空事は言わず、平和憲法などとやせがまんをせず、軍隊も武器ももって、戦争もやればいい。
同様に自動車だって、携帯だってなくすことはできないとお考えだろうか。
だが、それならタバコも酒も(お化粧だって)同じである。